アルザスのマジノ線

 先日、母のご機嫌伺いのためにアルザスのコルマールに滞在した折、近くにマジノ線の跡を見られる場所があると聞いたので、妹と義弟の案内で出向いてみた。

 案内された要塞跡は、コルマールから車で30分ほどのライン川沿い、いかにもドイツ的な地名で、これがアルザスの小さな町、という感じのマルコルスハイム(Marckolsheim)の外れにあった。義弟のパパはこの町で生まれ育ったのだそうだ。先の大戦まで、ユダヤ人はコルマールの街の中には定住を許されていなかったので、昼間は街の中で仕事し、夕方教会の鐘が鳴ると、この集落に帰って来るという生活を余儀なくされていたのだという。市内に自由に住むことができるようになったのは、戦後になってからなんだそうだ。

マジノ線跡(要塞裏側で、向こう側がライン川)
お馴染みのシャーマン戦車

 ご存知の通り、マジノ線は、ナチス・ドイツの侵攻からフランスを防衛するため、第一次大戦の、とりわけ西部戦線における塹壕戦の戦訓を元に、1930年代前半から中頃にかけて構築された要塞群である。名称は当時の陸軍大臣アンドレ・マジノ(第一次大戦に従軍しヴェルダンの戦いで負傷)に由来する。主な要塞100余箇所を地下トンネルで連結し(中には地下鉄が通る部分もあった)、その全長は700キロ以上に及ぶ。東京から福山くらいまでの距離である。

M3ハーフトラック改造の自走高射砲
機関砲の銃身を外していた

 パパの生家に近いにも関わらず、「あるとは聞いていたが、来たのは初めて」と義弟が言っていたから、一般的なフランス人には無縁のところなのだろう。わざわざ来たがるのは、物好きな日本人くらいなのかも知れない。

 さて、問題のマジノ線跡であるが、殺風景な史跡公園になっていて、広場にはM4シャーマン戦車とM3ハーフトラックをベースにした自走高射砲が機関砲の銃身を外して展示してあった。町の出入り口にシャーマン戦車を飾るのは、ナチス・ドイツからの開放を記念するフランスの田舎町のお決まりのスタイルである。我々以外、誰もいない。入り口と書いてあるから内部も見学できるのかもしれないが、シーズン外れということもあって、閉まっていた。説明板等もない。

土塁から顔をのぞかせたトーチカ

 コンクリートの施設が見えているのはマジノ線の裏側に当たる。表側は土塁になっていて、だいぶ埋まってしまっているがその外側に対戦車濠と思われる窪地があった。土塁にはドイツの急降下爆撃機の落とした爆弾が開けた?と想像される穴が残っていた。小型機の落とす爆弾は要塞にとって大した脅威ではなかったろうが、反撃の手段も乏しかったに違いない。この要塞は対空火器の設備を欠いている。残った施設で観察出来たトーチカや銃眼には、全て対人用の機銃が据えられ、第一次世界大戦の戦訓の延長上に構想された要塞であったことがよく分かる。

トーチカに残された弾痕

 鋼鉄製のトーチカには、かなりの数の弾痕が観察できた。要塞の背後を守る位置に設置されたものであるが、北側、施設の側面方向から銃撃を受けている。弾痕には大小2種類あり、機関砲と機銃の斉射をほぼ同方向から受けている。小型の弾痕は8mm前後、大型のそれは20mm前後の銃弾によるものと推定される。

 1940年5月、ナチス・ドイツが電撃戦を開始した。件のマジノ線を迂回し、ベルギー領を越えて機甲師団がなだれ込むと、フランス軍の戦線は早々に突破され大混乱に陥ってしまった。このためアルザス配置のフランス第5軍と第8軍は、兵力1万5千を残してその主力をボージュ山脈の西側に移動し、アルザス防衛は放棄された。これを受けて6月15日、ドイツ軍第7軍、15万が4地点からライン川渡河作戦を開始、フランス軍を圧倒し夕刻までには国境から30キロラインまで達して、フランス軍は次々に投降した。マジノ線の部隊の反撃も散発的に終わった。トーチカに残された弾痕は、その時のものではないかと考えられる。

 8月7日、アルザスはドイツのバーデン=エルザス大管区に編入され、徹底的な「ドイツ化」が進められた。少女だった義弟のママは『アンネの日記』のような逃亡生活を送り、パパはパルチザンに加わったのだという。

 マジノ線跡を短時間で辞した後は、ライン川を渡って、ドイツ側をドライブして帰ったのであるが、その帰り道、フランス側に戻ったところで私はただならぬ物を遠望し、興奮してしまったのであった。何を目にしたのかについては後日。