ソミュール戦車博物館 3

ドイツ国防軍主力戦車のセリエーション

 この戦車博物館で圧巻なのは、なんといってもドイツ国防軍の戦車コレクションだろう。機甲師団(Panzer division)を構成したであろう機械化装甲車両の大半を間近に眺めることができる。例えば上の写真だけでも、手前からVI号戦車II型(ティーガーII)、VI号戦車I型(ティーガーI)、IV号戦車、III号戦車……。しかも、このティーガーIIのエンジンはまだ生きていて、イベントの時は実際に動かすのだという。残念ながら、そのエンジン音を聞くことはできなかったが。
 ところで、左の男性の頭上の案内板に書かれたAllemandsとは、フランス語でドイツの意、要するにドイツ戦車のコーナーということなのであるが。もともとアレマンというのは、ゲルマン語を話していた諸族のうちの一派で、ライン川上流域、今のアルザス地方あたりに住んでいた民族である。フランス側から見て一番近いところに住み、直接的な接触のあるゲルマン人だったので、ゲルマン諸族全体をアレマン人と呼ぶようになり、フランス語ではドイツをアレマンと呼ぶようになった。

 さて、そこで思うのである。東夷伝に記された「倭人」とは一体誰だったのか、「倭」とは一体何処だったのかと。東夷伝には多くの民族が記されているが、いくつかの民族については、その分類を使用されている弓や矢の特徴から行っている(そもそも夷には弓の字が含まれている)。例えば、挹婁の場合はこんな感じである。

其弓長四尺力如弩 矢用楛長尺八寸青石以鏃 古之肅慎氏之國也 善射射人皆入因 矢施毒人中皆死 出赤玉好貂 今所謂挹婁貂是也

弓は長さ四尺で、弩の様な強さがあり、矢の長さは一尺八寸で、青石を鏃としている。古の粛慎氏の国である。弓を射る事に長け、皆命中する。矢には毒が塗られ、人に当たれば皆死ぬ。

魏志挹婁伝

 そして、倭人に関しては次のように、お馴染みの文。

兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃 所有無與儋耳朱崖同

兵器は矛・盾・木弓を用いる。木弓は下が短く、上が長くなっている。矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。

東夷伝倭人条

 上長下短の長弓は、はじめ(日本列島では弥生時代)朝鮮半島で用いられ始め、日本列島には確実には古墳時代中期以降に普及した可能性が高い。その後、朝鮮半島では姿を消した。弓の特徴から倭の領域を導くと、それはむしろ朝鮮半島南部に相当するのではないか。

岡安光彦2015「原始和弓の起源」『日本考古学』第39号

 中原から東方を眺めた場合、倭は最も近くに住む倭をもって、その背後に広がる「倭諸集団」を理念的にひとまとめに捉えた概念であろう。倭諸集団のなかには「え、俺たちって倭人なの?!」という人たちも少なからず含まれていたに違いない。「俺アレマンじゃないよ、ゴート人だよ」という人たちがいたように。とりわけ東日本の諸集団は、「倭人?それ何?!俺たち違うよ!」という感じだったはずだ。

 などと、Allemandsの表記を眺めながら、戦車博物館のなかで考えたのであった。などというのは真っ赤な嘘で、件の博物館を訪ねた2011年当時、弓をめぐる考察は、まだそこまで到達していなかった。

 すっかり脱線してしまった。つづく