メアリー・ローズ号沈没の位置
メアリー・ローズ号は、6人の妃を持ったことで有名なヘンリー8世が建造した、イギリス海軍の軍艦である。1545年、フランス海軍との海戦において、英国艦隊の拠点ポーツマス港の目と鼻の先で沈没した。
ところが、インターネット上には、なぜか間違った情報が広まっている。例えば、かのウィキペディア日本語版では。
1545年にソレントの海戦でイングランド艦隊の旗艦となり、フランス艦隊と戦闘を行うが、その際に炎上してしまう。強度を失った船体は転舵の際にプリマス沖に沈んだ。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
しかし英語版には、はっきりこう書いてある。
She led the attack on the galleys of a French invasion fleet, but she sank in the Solent, the straits north of the Isle of Wight.
Wikipedia, the free encyclopedia
1545年にイギリスとフランスの間で海戦のあったソレント海は、イギリス本島とワイト島とを分かつ小さな海峡である。ワイト島までは、手こぎボートでも渡れる程度の距離だ。その狭小な海峡の本島側に、イギリス海軍最大の拠点、ポーツマス軍港がある。
つまり、ソレントの海戦というのは、イギリス海軍の喉元にフランス海軍が匕首を突きつけたという感じの、イギリスにとっては不名誉極まる戦いであった。しかも戦闘では、ポーツマス軍港の目と鼻の先のところで、フランス海軍が繰り出した小型のガレー船に艦隊の旗艦が攻撃され、陸地から多くの人々が目撃するなかで、あれよあれよという間に沈没してしまったという、なんとも情けない戦況であった。
そのような次第で、メアリー・ローズがプリマス沖に沈む訳がないのである。戦いの一日後にプリマス沖で沈んだ、などともっともらしいことを書いているWebsiteもあるが、いったいどこからそうした誤った情報が伝わったのであろうか。ウィキペディアを鵜呑みにしてはいけない。
海戦に前後してワイト島にもフランス海軍の陸戦隊が上陸し、周辺の町を焼き払って乱暴狼藉の限りを尽くした。これに抗して、ワイト島住民が反撃に出て、女性も含めた弓兵がフランスの陸戦隊を撃退したという話を読んだのであるが、何処で読んだのか定かではない。
さて写真は、メアリー・ローズ号博物館で手に入れた帽子である。後ろに沈没位置の緯度経度が刺繍してあり、ベルトの止め金具には進水した1511の年号が打たれている。お気に入りのキャップである。しかし、至極残念なことに、帰ってきてからタグを見たら、Made in Chinaと記してあった。中国、恐るべし!
ディスカッション
コメント一覧
突然のコメント失礼いたします。
弓矢について強い興味関心があり、弓矢についての動画投稿もしている者です。
こちらのページへの書き込みが場違いでしたら申し訳ございません。
ネット検索をした際に、2019年8月のページ
「原始和弓の起源 2015年『日本考古学』」に辿り着き、興味深く拝読しました。
考古学の知識が浅い私にとっても非常に分かりやすく、とても勉強になりました。
以前より、「和弓がどうして長大で、上長下短なのか」ということについての個人的な考察があったのですが、お読みした論文をふまえるとその考察について合点がいくと感じています。
ご論文を引用しながら、私の考察を述べていきます。ご一読頂けると幸いです。
・日本の弓が、ある時期に極端に長大になったこと
このきっかけは、「コンポジットボウが使えない地域である日本に、コンポジットボウ向けの射法が流入したこと」であり、「上長下短の長弓は元々、コンポジットボウの代用品であった」と考えています。
(“composite bow”という言葉は複合弓の中でも動物の腱・角を用いるものだけを
指すことが多いようなので、ここでも同様の使い方をしています。)
単弓・木製複合弓と比較した時のコンポジットボウの特徴として、非常に大きく弓を曲げることができる、ということが挙げられます。
弓の断面で見ると、引き延ばされる側に動物の腱、圧縮される側に動物の角を張り合わせた構造になっているため、あまり弓を大型にしなくても大きな引き尺を得ることができます。
射法について見ていくと、コンポジットボウを使用する地域のほとんどは“蒙古式”と呼ばれる取り掛けの方法を採用しています。木製の弓を使用する地域は日本を除き、ほとんど“地中海式”であるのとは対照的です。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9a/Bow_Draw_ja.svg
このような棲み分けが見られる理由にはいくつかあるのですが、
蒙古式のメリットのひとつに、手首の位置が同じでも地中海式より5㎝ほど大きく弓を引いた状態になる ということがあります。
これは、親指で引く方が手首からの距離が短くなるためで、大きな引き尺を得られるコンポジットボウは蒙古式の取り掛けによって性能を更に引き出すことが出来ます。
コンポジットボウの欠点は、まず 地域によっては材料が入手できないことです。
欠点のもうひとつは、湿気に弱いことです。
例外はありますが、基本的に乾燥した地域で使用される弓で、
中国では歴史的に、南は木製複合弓、北はコンポジットボウ といった棲み分けがなされていたようです。
≪弥生時代中期から後期に相当する紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけて,茶戸里例や良洞里例に示されるように,朝鮮半島南部にはすでにI類長大弓が出現していた。有機質の弓が遺存する確率の低さを考慮すると,漆塗りの長い弓が,朝鮮半島南部でかなり普及していたことが窺える。≫
≪いっぽう,日本列島では,弥生時代の開始とともに縄文時代以来の短い弓に,半島の影響を受けた改良が加えられ,大阪府亀井例のように,比較的大型で強靭な弓も普及していた。しかし,原始和弓に繋がる,茶戸里例や良洞里例のように極端に長大なI類の弓は,唐古例などその可能性のある断片的資料のみが,ごく一部の遺跡から出土しているに過ぎない。≫
≪紀元後5世紀後半に入って,このように完成された姿の原始和弓が唐突に確認できるようになり,そのあと日本列島の標準的な弓として一気に普及した経緯は,現時点では不明である。ただし当時の極東情勢をみると,高句麗の圧迫を受けた百済が苦戦し,西暦475年には漢城を落とされ蓋鹵王が戦死して,一時的に滅亡するという大事件が起きている。≫
5世紀後半に、多くの人が朝鮮半島から亡命してきた。
彼らはコンポジットボウ向けの射法を身に付けていたが、かつて日本で一般的だった単弓では主に引き尺の問題でその射法が使えなかった。かといって、それまで培った弓矢の技術を捨てわけにもいかなかった。
そのため、長大な単弓を作ることで対応した。
日本にもたらされた新しい射法はその後もどんどん普及・発展していき、日本独自の弓・弓術が誕生した。
このように考えています。
・和弓が上長下短であること
これは、長い弓の下の部分が色々なものに当たらないようにするため、というのが最大の理由だと考えています。
海外の2m級の弓は真ん中近くを持つことが多い中で日本の弓が特殊な変化を遂げた理由としては、特に馬上での扱いの際、弓の下の部分が馬に当たりやすかったためだと考えています。
主張を裏付けるような情報(例えば、この時期に出土する矢の長さが長くなった、あるいは射法の変化を示唆する証拠 など)には辿り着けていない中途半端な状態ですが、以上が個人的な考察です。
もしご指摘など頂けると幸いです。乱文大変失礼いたしました。
ジョーモンパーソン様。コメントありがとうございます。ユーチューブの「弓矢の歴史と物理学」は興味深く拝見させていただきました(一部の考古学研究者の間で高評価されております)。
日本列島の戦士集団がなぜ彎弓を受容せず、あの不思議な長弓に拘ったかということについては、7月にチェコのプラハで開催される予定だった世界考古学協会(WAC)2020の発表で、エスニシティや身体技能などとの関係で議論するつもりでした(大会が1年延びたのでゆっくり考えを練りたいと思っているところです)。
なお現在、弓をめぐっては、南北アメリカ大陸への弓文化の波及について考察を進めているところで、そちらが一段落ついたら、返す刀でユーラシア大陸全域の弓文化についてレビューしたいと考えております。気長にお待ちいただければ幸いです。