弓馬の道と文明の生態史観 2019年 情報考古学会

岡安光彦

Abstract:  梅棹忠夫が提唱した「文明の生態史観」を考古学的に再検証する。水牛の角と動物の腱を膠で貼り合わせた彎弓は森林資源に乏しいユーラシア大陸中央部の乾燥地帯で広く用いられた。その分布は簡素な銜枝轡を用いる遊牧騎馬民族の生息域、すなわち梅棹のいう「悪魔の巣」と完全に重なる。いっぽう樹木を削って製作する長弓は、ユーラシア大陸の東と西に広がる海洋性の湿潤な樹林帯、日本や島嶼東南アジアなどの太平洋西岸、イギリスをはじめ大西洋東岸で用いられた。その分布は先の彎弓と排他的である。『淮南子』に「胡人便於馬、越人便於舟」と書かれたように、長弓の盛んな地域では馬より船が重用された。朝鮮半島は後者に位置し、揚子江下流域に生息した海洋民に起源する長弓も、日本列島に先んじて普及した。しかし4世紀以降の騎馬民族の南下を受け、「馬&彎弓文化」の領域に組み込まれ、その文化体系を上書きされて、それ以前の基層文化を亡失してしまった。これに対して、日本列島にも北方系の馬匹文化や神話体系が波及したが、彎弓は受容されず、長弓を用いる戦士文化が堅持された結果、「馬&長弓」というユニークな騎兵文化、「弓馬の道」が成立した。古代日本神話と同様、「弓馬の道」は、日本の基層文化が、ユーラシア内陸の遊牧民文化と、太平洋西岸の海洋民文化という異なる二つの文化からなる二元構造を持つことを査証する。文明の生態史観は、今日なお有効な観点を提供すると考えてよい。

Keyword: 文明の生態史観、日本文化の二元構造、遊牧民、海洋民、弓馬の道
Ecological View of History, Japanese Civilization, Nomad, Sea Nomad, Horsemen

1.文明の生態史観

 梅棹忠夫が唱えた「文明の生態史観」をめぐっては、公表当時から賛否両論あり評価は分かれる。本論の目的は、その可否を考古学的な観点から再検討することにあるが、議論を開始する前の準備作業として「文明の生態史観」についてその概略を整理しておく。

図1 梅棹忠夫の文明の生態史観モデル

 梅棹は生態学者の立場から、ヒト共同体の歴史も、動植物の自然共同体の歴史と同じように、生態学でいうところの遷移(サクセション)理論を適用することによって、ある程度まで法則的に解明できるのではないかと考え、次のような仮説を示した(図1)。

 旧世界(ユーラシア大陸)の中央には、大陸を斜めに横切って東北から西南に走る大乾燥地帯がある。「遊牧民による破壊の源泉であり悪魔の巣」であると同時に、古代文明の大半が申し合わせたように誕生し専制的な大帝国を成立させた大乾燥地帯とそれを取り囲むこの地域を、梅棹は第二地域と呼んで、I 中国世界、II インド世界、III ロシア世界、 IV 地中海・イスラム世界の4地域に大別した。これに対して、旧世界の東西に位置する湿潤な地域、日本や西ヨーロッパを、自然に恵まれず古代文明も誕生しなかった一方で、大乾燥地帯の破壊力に曝される機会も少なく、歴史が封建時代を経て段階的に発達し成熟した資本主義社会を成立させた第一地域とした。(梅棹1957、1958)

図2 川勝平太の海洋史観モデル

 梅棹の議論は荒削りで、単なる思いつきに過ぎない部分も少なくないため、その評価が別れた。しかし、梅棹が示したグローバルな観点には注目すべきである。後に川勝平太は、そうした梅棹モデルの優れた点を肯定的に評価するいっぽうで、海洋という重要なファクターを補完して「文明の海洋史観」モデルを提唱し、生態史観を批判的に継承した(図2)。(川勝1997)

 川勝モデルは、「文明の生態史観」の魅力である「グローバルな観点」をさらに拡張した興味深い仮説である。しかし人文科学ないし社会科学の観点に立った議論が中心で、梅棹モデルの根幹となった生態学的な観点、ヒト共同体が自然環境に依存しながらその歴史を紡いできた、という側面についての議論が不足している点は否めない。そこで本論では、ヒト共同体の歴史を、考古学ないし文化人類学的な資料を通して生態学的に考察するという新たな手法を試み、それを通して『文明の生態史観」の有効性を検証していく。

2.弓馬の生態学

2.1 弓の「棲み分け」

図3 弓の大分類

 人類が使用する弓は、I類(丸木弓系)・II類(彎弓系)・III類(フラットボウ系)・IV類(弩弓系)の4系統に大別できる(図3)。ある地域でどんな弓が使われるかは、第一義的にはその地域で得られる材料、つまるところ樹木被覆率(図4)や気候区分といった生態学的環境に規定され、次いで歴史的な要因が弓の種類を決定する。各種の弓の分布は大局的にはこの二つの原理に支配される。(岡安2015)

図4 樹木被覆率

 梅棹が悪魔の巣と表現した、ユーラシア大陸中央を東西に広がる大乾燥地帯とその周辺、つまり梅棹のいう第二地域には、動物の角を弓腹側に、腱を弓背に膠で貼り付けた複合弓、彎弓が排他的に分布する。これに対して、ユーラシア大陸の西岸と東岸の湿潤な樹林帯、西ヨーロッパや日本、島嶼東南アジアといった梅棹のいち第一地域では、揚子江下流域の初期新石器時代文化にその起源を求められる、丸木弓系の長弓、太平洋型長大弓の分布圏である。いっぽう北極圏には、膠を使わず動物の腱などで弓幹を緊縛した極北型フラットボウが排他的に分布している。弩弓は大陸東南アジア熱帯雨林の先住民に独自の起源があると考えられる。こられの弓は、乾燥地帯や湿潤地帯など、それぞれ異なる生態系に適応して発達し、互いの分布圏を「棲み分ける」結果となったと考えられる(図5)。(岡安2015、2018)

図5 弓の地域性とオーストロネシア語族の拡散域

 これに対して、歴史的な経緯で本来の生態学的に形成された弓の分布圏に変異が生じた例がある。たとえば、アフリカ大陸西部や北アメリカ大陸東部に弩弓が分布するのは、奴隷貿易に付随して、ヨーロッパ人が弩弓を伝播させた結果である。インドネシは、本来的には長弓の分布圏であるが、歴史が下ると彎弓も出現する。イスラム化の影響で、乾燥地帯から舶載された弓だろう。

 いっぽう太平洋型長大弓の分布は、海洋に適応して太平洋およびインド洋に拡散していったヒト集団、オーストロネシア語族の散域域とよく重なり合うことが知られている。生態系への適応と、歴史的事象とが重なって、ある特定の弓種の分布圏が形成されていく経緯を具体的に検証できる例である。(岡安2015)

図6 朝鮮半島の彎弓

 朝鮮半島南部は湿潤な海洋性樹林気候に属し、本来は植物質の丸木弓の分布域であった。先の太平洋型長大弓も、日本列島に先んじて紀元前1世紀頃までには受容され、その使用が開始されている。しかし4世紀以降活発となる北方騎馬民族の南下に伴う形で、丸木弓から彎弓へという弓文化の置き換えが行われ、姿を消してしまった(図6)。日本列島では、太平洋型長大弓の系譜を引く和弓が今日まで継承されたのとは対照的である。

2.2 馬匹文化の生態学

「悪魔の巣」とされる文明の第二地域、ユーラシア大陸の中央に東西に広がる大乾燥地帯は、良馬の産地であり、いちはやくウマを家畜化して馬匹文化を繁栄させた遊牧騎馬民族の拠点である。その文化に伴うのが、簡素な銜枝轡に代表される馬具類である。文明の第二地域における情報の伝達は迅速で、その全域で、骨角器から青銅器へ、さらには鉄器へと共通の発達を遂げながら、よく似た馬具が共有された。

 文明の第二地域において、「破壊の源泉」たる遊牧騎馬民を支えたのが、豊かな馬資源、それを利用するための馬具類、乏しい森林資源に適応する形で発生した彎弓という、二つの物質文化であった。考古資料がそれを裏付ける。

3.「弓馬の道」の二元構造

 日本列島の戦士集団において、伝統的に重要な能力とみなされたのは、意外なことに剣戟の力ではなく、馬術と弓術であった。「弓馬の道」や「海道一の弓取り」という言葉の存在も、それを裏付けている。

 それでは、日本列島において、そうした「弓馬の道」がいかなる経緯を経て、戦士集団が重んじる伝統的特 技になっていったのだろうか。

図7 初期スキタイ期アルタイ馬具

 日本列島に馬匹文化が流入したのは、4世紀末以降、主に5世紀代のことである。この期には、馬匹文化のみならず、北方騎馬民族系の文化が怒涛のように日本列島に流入し、弥生時代以来の在来の文化を書き換えていったことが知られている。騎兵組織の導入は、大陸系の馬具とともに彎弓を伴うのが自然な流れであったはずである。実際、朝鮮半島では、馬匹文化とともに彎弓が受容されている。

 ところが、日本列島の戦士集団は、馬匹文化を極めて積極的に導入するいっぽうで、彎弓を受容することは断固として拒否した。わずかでも彎弓が導入された気配はない。それどころか、形式にばらつきのあった丸木弓は5世紀後半頃に原始和弓として定型化された可能性がある。北方騎馬民族系の戦士文化の導入は、全面的にではなく、明確な意図をもって選択的に進められ、日本的な「弓馬の道」が成立していった。この点だけを見ても、江上波夫の騎馬民族日本征服説は成立しがたいといえるだろう。

図8 鉄器時代ティユルク墓

 このように、大陸の先進文化を積極的に受容しつつ、いっぽうで伝統的文化も墨守するという矛盾した姿勢は、同時期の文化受容の多くの局面で観察できる。たとえば日本神話は、古墳時代以前に起源をもつ土着のアマテラス系と、5世紀に入ってきた北方アジア由来のタカミムスヒ系という、二系統の異質な神話群から構成されているという(溝口2000)。新来のタカミムスヒ系に一度は圧倒された古いアマテラス系神話が、7世紀後半の天武期に復権したとする溝口説には反対意見もあるが、異質な二系統の神話が二元構造をなすという点に関しては、古代史学と神話学の双方において多くの学者の意見が基本的に一致している。

図10 創姓神話の二元構造

 在来系と大陸(半島)系の二元構造は、実は古墳時代の武器や馬具の研究者にとっておなじみの図式で、たとえば大刀においても、弥生時代以来の伝統を継承するヤマト族固有の大刀(倭系装飾付大刀)と、新規の舶載品(大陸系装飾付大刀)とが、対をなして組み合わされるというのが、中期以降の有力古墳に認められる典型的な副葬パターンである。天武期に最も近い正倉院の大刀にも同様の二元構造があり、古墳時代後期の馬具も同様である。神話に照らせば、それぞれアマテラス系、タカミムスヒ系の文物にあたる。

4.結語

 溝口睦子によれば、弥生時代以来の伝統的なアマテラス系の神話は、海洋民的な色彩が強いととされる(溝口2000)。このことは、原始和弓が新石器時代初期の揚子江下流域で誕生した太平洋型長大弓の系譜を引くことと親和的である。日本列島と朝鮮半島とは、ともにユーラシア大陸東岸の湿潤な樹林帯に位置するが、大乾燥地帯の暴力に接する半島には北方系の文化が転移し、いっぽう海峡を挟んだ列島には、在来の第一地域の文化的伝統が残される結果になった。「文明の生態史観」の論法に従えば、そのように結論付けることができるだろう。

参考文献

  • 梅棹忠夫 1967『文明の生態史観』中央公論社
  • 岡安光彦 2013「古代長弓の系譜」『日本考古学』第35号 日本考古学協会
  • 岡安光彦 2015「原始和弓の起源」『日本考古学』第39号 日本考古学協会
  • 川勝平太 1997『文明の海洋史観』中央公論社
  • 溝口睦子 2000『王権神話の二元構造-タカミムスヒとアマテラス-』吉川弘文館
  • 溝口睦子 2009『アマテラスの誕生-古代王権の源流を探る』岩波書店
  • Shulga, P. I.  2008 Equipment of the Saddle Horse and Warrior Belts in Altai.

Posted by Okayasu Mitsuhiko