古墳時代の軍事革命

考古学協会第71回総会発表要旨

岡安光彦

末尾に発表当日のプレゼンを収録(要旨とは内容に異動があります)。

はじめに

筆者は、2001年の第67回総会で、文献史学や国文学からの借り物に過ぎない東国の語の考古学における使用を批判した。本来の考古学的手続きによって導出された概念ではないからである。しかしその後も東国の語は広く考古学で利用され廃れる気配はない。東国という概念が考古学上の議論を進める上で捨てがたい有用性を持つからであろう。それなら借り物の概念で済ませず、考古学的な手続きを経て明確に定義した上で使用すべきである。本論の第一の目的は東国の考古学的定義にある。東国は基本的にその武力のあり方によって日本列島の他の地域 - 畿内や西国から区分される空間である。本論の第二の目的は、古墳時代の武力の地域的偏在性を示すことにある。この作業の過程で、本論では西洋近世史や軍事史の研究で用いられ成果を上げている軍事革命の概念を導入する。本論の第三の目的は、考古学研究に軍事革命の概念の導入を試みその有効性を確認することにある。

東国の定義

本論では考古学における東国概念の再帰的定義の初期値として東国をひとまず以下のように定義する。
【定義】 東国とはTK209段階において明確になる東日本固有の特性を示す鉄鏃群および頭椎大刀の分布域によって考古学的に特定される地域空間である。

鉄鏃の地域性

杉山秀弘・水野敏典等により古墳時代の西日本と東日本の鉄鏃組成には明確な境界があることが示されている。東日本でも前方後円墳が姿を消すTK209段階、畿内を中心に一斉に古い形式の鏃を捨て去り標準化が進む西日本と、無頸式鉄鏃や腸抉などを有する伝統的鉄鏃群に固執し、さらにそれを特化させる独自の展開を共有し、鉄鏃生産において畿内の直接的規制を受けない東日本とに、鉄鏃組成の境界が明確に分離する。

飾大刀の地域性

その製作地や供給源については諸説があるが、飾大刀にも明確な地域性が認められる。新納泉が指摘するように頭椎大刀は、その分布から畿内で生産され東日本の首長に配布されたとみなすのが妥当である。

東国の武力

東国を定義する二つの考古資料はいずれも武器である。東国が軍事力の供給地であったことは史料にも示されており矛盾しない。次に別の資料で東国概念を補完しその再帰的定義を試みる。

馬具の集中

特有の鉄鏃群や頭椎大刀と同様、東国に特徴的なのが多数の馬具副葬古墳の分布である。 このうち、信濃・駿河の馬具集中域については、後世の舎人を氏姓とする者の居住域と相関があり、その一部は欽明・敏達期に東国舎人として育成された騎兵集団で、推古期には大規模な軍事力に成長しており、後世にも名負の氏として繁栄し馬政・馬匹生産・騎兵に従事したと推定できる。また東国の馬具集中域は、後の東山道や東海道とくに駅家推定地と相関し、古墳時代に既に東山道や東海道の母体となる物流ネットワークが形成されていた。この二点については以前指摘したが、本論では東国全域の馬具の分布を統一的に説明するため以下のように仮説を拡張する。

兵站の整備

駅家の強い軍事的側面については高橋美久二が指摘している。『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条には、全国の駅名と駅馬数や伝馬数が克明に記されているが、これは兵部省が全国の馬匹を掌握し、異変の際に軍馬を徴発し作戦計画を立案するためのものであるという。軍事学では兵站線はcomunication lineであり、駅家網も兵站線である。後の東海道・東山道の駅家システムへと発展する馬具集中域の形成は、物流網のみならず通信・兵站網となる軍事基盤の構築が既に古墳時代の東国において着手されていたことを示す。 なお北陸道などに古墳時代の馬具集積は認められないがそれは何故か。これは古墳時代にはその必要性のない地域に、後に兵站線が設けられたのは何故かという問題である。答えは防衛線の変化に求められる。663年の白村江の敗北を機に倭軍は半島南部の前進拠点(advance position)を失い日本海の制海権を喪失した。このため倭の防衛線は一気に広正面化し、海路に依存しない兵站線が必要になったと考えられる。

東国の完成

その前史は少なくとも古墳時代前期まで遡るが、東国はとくにTK209段階以降に明確になる固有の武装システムによって特徴付けられる空間である。特異な鉄鏃は特異な軍事力の所在を、装飾大刀は軍事指揮権を、馬具の集積は軍事力の性格を示すであろう。古墳時代後期末、東国はその固有の軍事システムによって西国から区別される特異な地域として完成した。

軍事革命

西洋史学や軍事史学で用いられる軍事革命の概念を簡単に整理しておく。

研究史

軍事革命の概念は西洋史学と軍事理論の二つの起源をもつ。1955年、イギリスの西洋史研究者マイケル・ロバーツは、オランダのマウリッツが開発し、スウェーデンの軍事王グスタフ・アドルフが発展させた戦術と軍制の改革が、中世社会を近代社会へと転換させる歴史的原動力となったと捉え、これを軍事革命と呼ぶことを提唱した。この主張は激しい論争を経て基本的に受け入れられた。 いっぽう1970年代の冷戦時、精密誘導弾・巡行ミサイル・ステルスなど西側の新軍事技術に深刻な危機感を抱いたソ連軍事理論家が考えた軍事技術革命(Military-technical Revolution)の概念を、革命的軍事改革(RMA:Revolution in Military Affairs)の概念として発展させたのが米国防総省のアンドルー・マーシャルである。マーシャルはテクノロジーより軍事原則を重視したが、軍事関係者は予算獲得のためもあってテクノロジー優先の議論を進める傾向が強い。 歴史研究の分野では、17世紀以前のRMAの事例にも目が向けられ、軍事革命とRMAの区別と関係も整理されて研究が深化拡大して今日に至っている。以下、具体例として14世紀イギリスのRMAを概観する。

プランタジネット朝のRMA

エドワード2世の時代、イギリス兵2名は1人のスコットランド兵に敵わなかった。1314年、スコットランドのロバート・ブルースが重騎兵1500・歩兵40000を投入しイングランド支配のスターリングを包囲すると、エドワード2世は重騎兵5000・軽騎兵10000余・弓兵20000・歩兵25000の60000余の兵力で出撃、バノックバーンでブルース軍と衝突した。イングランド軍重騎兵は敵正面に数次にわたって突撃したが撃退された。弓兵も十分に展開できず敵より味方を撃つ結果となった。結局イングランド軍は総崩れとなり15000余が戦死、スコットランドの損害は4000だった。
ところが、次のエドワード3世の代になると「100人のフランス兵部隊は、20人のイギリス兵と対峙することも戦いを挑むことも望み得ない」状態になった。1332年、エドワード3世指揮する重騎兵1000・弓兵1500がスコットランドに侵入し、重騎兵2000・歩兵20000と10倍近い敵とダプリン・ムーアで衝突し、これを一方的に撃破して3000を戦死させた。
これから後、イングランド軍は100年余も数において勝る敵を繰り返し撃破した。とくに1346年のクレーシーの戦闘は著名である。エドワード3世が重騎兵3000・弓兵10000・軽歩兵4000を率いてフランスに侵攻、フィリップ6世が60000の軍を率いてこれを迎撃した。エドワード3世はクレーシー森付近に布陣、フランス軍重騎兵がこれに突撃するとイギリス軍長弓兵が一斉射撃で応戦、フランス軍は10000以上の死傷者を出して敗走した。
エドワード3世のRMAにおける明確なテクノロジー構成要素はイチイ材の長弓で、甲冑部隊に対しても致命的な効果を有した。ただし長弓はイギリスにとって新しい技術ではなく、エドワード2世も長弓兵の大軍を有した。またエドワード3世軍の甲冑や軍馬などの装備は優れてはいたが、フランスと大差なかった。 つまり14世紀イギリスのRMAにとって、戦争の物質文化の変化は決定的ではなかった。それに代わり、イギリス軍はバノックバーンの大敗から20年の間に重要な組織的、構造的、行政的な変化を遂げていた。
まず軍事組織が変化した。1334年以降、エドワード3世の全軍勢は王から賃金支給を受ける兵士で構成されるようになった。対仏戦争がもたらす巨大な利益は兵士に十分な給金を支払うことを可能にし、軍事遠征に参加することは、略奪の機会も含めて兵士にとって魅力的で望ましい好機に変化した。
次に戦術が転換し、騎士でさえ下馬して歩兵として戦うようになった。歩兵的長槍を装備した重騎兵は下馬して中央阻止部隊となり、斜め前方両翼の弓兵隊が敵正面と側面を射撃しつつ側面を守るという戦闘態勢で戦うようになった。こののち1世紀以上の間、イギリス軍はこの「ダプリン戦術」に固執し、それによって度重なる勝利をおさめた。
加えて巧みな戦略が採られた。ダプリン戦術は正面攻撃を控える軍には効果がない。エドワード3世は敵に攻撃を強いるため、重要都市の包囲とシェヴォシェと呼ばれる略奪行軍の二戦略を用ちいた。敵は都市の陥落を嫌えば戦わなければならず、戦いを拒めば耐えられない損害を受けた。この戦略はイギリスが求める条件をフランスに強制した。
つまり、プランタジネット朝が長期にわたって戦場で成功できたのは、兵器の優位を最大限に活用する優れた戦術システム、激烈に戦う組織、巧みな戦略、卓越した指導力が統合された結果である。

軍事革命とRMA

軍事革命とRMAとは、それぞれ異なる歴史的現象である。軍事革命(Military Revolution)は抑制も予測も不可能な社会的ないし国家的大変動で、戦争の方法や様式を根本的に変化させる一方、国家を滅亡させまたは改変させる。18世紀末のフランス革命がその例で、大衆政治と戦争とが融合して徴兵制が生じ、100万規模の軍隊が人類史上はじめて登場した。
RMAすなわち革命的軍事改革は、軍隊の教義・戦術戦法・作戦・軍事技術の革命的な刷新である。プランタジネット朝の例にも示されるように、過去のRMAには4つの特徴が認められる。第一にテクノロジーだけがRMAを推進したのではない。物質文化の変化はあくまで触媒として機能した。第二に特定の敵・特定の交戦圏・特定の作戦・戦術をめぐる具体的問題解決の中で出現した。第三に各軍隊の固有の文化に基づく一貫した教義を必要とした。第四に戦略的前提に根ざしかつ限定されていた。なお軍事革命とRMAは区別されずに同義に用いられることも多い。

東国の成立と軍事革命

古墳時代の倭軍の主力は一貫して弓兵である。このことは古墳時代後期~末期の最下級の兵士の武装が大刀ではなく弓であることからも読み取れる。倭軍の戦術教義は、中期の陣地防御から後期以降の機動防御へと変化したと考えられる。

倭軍の第一次RMA(古墳時代中期)

古墳時代中期の開始とともに倭軍の第一次RMAが始まり、弓兵の武装強化が追求された。貫徹力のある長頸式鉄鏃の出現に示される攻撃力の強化、鋲留式短甲の量産化に示される防御力の強化など、軍事テクノロジー面での努力が出土品から明瞭にうかがえる。 この期の敵は高句麗や新羅、交戦圏は朝鮮半島南部、基本的に百済や伽耶諸国との共同作戦で戦闘が行われた。壁画や出土品から高句麗の主力は重装騎兵とされることが多いが、実戦にどれだけ投入されたかは不明である。高句麗には他に弓兵や槍兵などがあり、弓兵は弩を装備する。これに対し百済・伽耶軍の主力は矛歩兵、倭軍主力は重装弓兵であった。
「究極の暴力」と評価する桃崎祐輔氏に代表されるように、重装騎兵の戦闘力は過大視される傾向がある。軍事学には破壊力においてこれ以上のものは期待できない絶対兵器(absolute weapon)という理論上の兵器があるが実在しない。戦史を見れば明らかなように、重装騎兵は必ずしも編成コストに見合った働きをする兵種ではない。倭の歩兵が高句麗騎兵に簡単に蹂躙されたとみる研究者がいるが、戦史を無視した議論である。単純に長弓が弩に劣るとみるのも誤りである。
半島南部における戦闘は、高句麗軍や新羅軍の攻勢を受け、連合軍が築城または陣地編成して防御する基本構造で行われた。倭軍の楯が持楯でなく置楯を主にする理由は陣地防御への適応にあろう。戦闘時に楯を持てない弓兵が重装甲化を進めた理由も同様である。 倭軍の第一次RMAは、高句麗・新羅への防勢の中で、百済・伽耶の存続、朝鮮半島南部の前進拠点の維持、鉄資源の確保を実現させたと評価される。
なお、倭の馬匹生産は畿内王権主導で既に中期から積極的に開始されていたが、騎兵編成には至らなかった。倭軍の教義が重装弓兵による半島南部の陣地防御に主眼を置いていたから当然である。王権中枢は騎兵の育成を怠っていたわけではなく、渡来人の力を得つつ、騎馬兵力の中核となる馬匹生産集団の育成をとくに東国に重点を置いて開始していた。

倭軍の第二次RMA(古墳時代後期)

倭軍の第二次RMAの開始とともに古墳時代後期が始まる。TK47とMT15の境界期、倭軍は弓兵の重装甲化を一気に停止し、主要装備から鉄製甲冑と剣を廃止した。次いで東国を中心に弓兵の騎兵化に着手した。倭軍の教義が、中期までの陣地防御から、機動防御を主眼とする教義へと変化した結果と見られる。 倭軍の教義変更の理由は不明である。しかしそれは極東世界の軍事バランスに深刻な影響を与えた。この方針変更の後、間もなく伽耶諸国は滅亡、新羅の勢力圏が拡大する一方、百済は衰退し、倭も半島南部の前進拠点の恒常的維持が困難になった。少なくともこれらの点に関していえば、倭軍の教義変更は失敗であったといえる。

倭軍の第三次RMA(古墳時代末期)

東国の私的軍事力(国造軍)を基盤とする倭の軍事体制が確立した。東国の軍事的独立が倭王権への隷属を条件に一定程度保証され、倭軍の主力として編成され、東国が成立した。軍の主体は国造軍を構成する軽装弓兵で、弓騎兵も編成された。とくに駿河・信濃では倭王権への忠誠心の強い騎兵集団が育成され、王権に直属する精強な軍事力として編成された。いっぽう、おそらく東国の軍事力をその強制力として、西国の私的軍事力は畿内王権により解体または無力化された。ただし海上兵力については不明な点が多い。
この期には倭(日本)をとりまく東アジアの軍事情勢が大きく変化するが、倭軍(日本軍)は663年までその教義を基本的に変更しない。主力は軽装弓兵および弓騎兵である。騎兵の充実はこの期の特徴で、馬具の標準化も進む。とくにTK217期には規格化された実用的馬具が倭全域に流通する。 倭の第三次RMAの成果は、諸国の存亡に関わる多国間戦争で試された。敵は新羅と唐の連合軍、交戦圏は半島南部である。百済と倭の連合軍は663年の戦闘で敗北し、百済は滅亡した。
半島南部の前進拠点と日本海周辺の制海権とを失った倭軍の防衛線は、一気に広正面化した。このため倭軍はその教義を攻勢戦略から防勢戦略へと改変し、敵の上陸適地周辺に築城および陣地編成を行うとともに、広正面化に対処して兵站線の見直しを行い、駅家網の整備へと向かったとみられる。 この期にはまた磐舟潟から仙台湾に至る北辺の防衛線が整備され、東国国造軍の一部が配備された。新潟県浦田山古墳群から宮城県色麻古墳群に至る群集墳のあり方がそれを示唆する。これにより東国の北の境界が画区された。

日本古代国家の成立と軍事革命

考古資料から見る限り、倭軍は古墳時代後期初頭にそれまでの陣地防御から機動防御へと戦術教義を大きく変更し、その後一貫してそれを貫いた。結果的には伽耶諸国、百済の滅亡を招き、半島南部の前進拠点を喪失した。個々の失敗をみれば、その教義変更は誤りである。皮肉なことに、内乱においてはじめて、教義変更は功を奏した。壬申の乱において東国軍の指揮権を掌握した大海人は、その卓越した機動打撃力を用いて敵を倒した。
しかし、巨視的に見ると、倭は高句麗・百済・伽耶諸国・隋が次々に滅びる中で独立を守り、日本古代国家を成立させた。663年の敗北を機に攻勢戦略から防勢戦略へと転換したが、新羅・唐による侵略の脅威に対しては、東国軍を主力とする軍兵を九州に動員してこれを牽制し、今日の安全保障学でいうところの拒否的抑止を実現して、これを阻止した。その後、日本は長期間にわたって対外戦争から免れ平和を享受した。この結果を見れば、倭軍の戦術教義の変更は、長期的には誤りではなかった。
倭は、高句麗・新羅・唐との戦争を通して三次にわたる軍事改革を押し進め、東国国造軍をその主力とする独自の軍事制度を構築して軍事革命を実現し、極東の軍事的緊張の時代を滅びることなく克服し、独立した国家を建設することに成功した。軍事革命において重要な役割を果たした東国の成立は、古代日本の成立と表裏一体をなすものである。
謝辞
白石太一郎、杉山晋作、阿部義平、和田萃の各先生から多くのご指導をいただいた。また内山敏行、鈴木一有、津野仁の各氏との議論から多くの啓示を受けた。記して感謝の意を表したい。
参考文献
防衛学会編1980『国防用語辞典』
森沢亀鶴1984『英和・和英米軍用語辞典』
岡安光彦 1986「馬具副葬古墳と東国舎人騎兵」『考古学雑誌』第71巻第4号
杉山秀宏1988「古墳時代の鉄鏃について」『橿原考古学研究所論集第八集』
水野敏典1995「東日本における古墳時代鉄鏃の地域性」『古代探叢IV 滝口宏先生追悼考古学論集』
岡安光彦 2000「初期国家形成期の物流ネットワークと軍事システムの関係について」『日本考古学協会第66回総会研究発表要旨』
岡安光彦 2001「小オリエンタリズムとしての東国史観」『日本考古学協会第67回総会研究発表要旨
松木武彦2001『人はなぜ戦うのか』
新納泉2002「古墳時代の社会統合」『日本の時代史』2倭国と東アジア
水野敏典2003「鉄鏃にみる後期古墳時代の諸段階」『第8回東北・関東前方後円墳研究大会発表要旨』
マクレガー・ノックス,ウィリアムソン・マレー,今村伸哉訳2004『軍事革命とRMAの戦略史』
高橋美久二2004「駅家の構造」『駅家と地域社会』
桃崎祐輔2005「東アジア騎馬文化の系譜-五胡十六国・半島

















Posted by Okayasu Mitsuhiko