弩弓の起源とその西方伝播 2018年考古学協会

                               岡安光彦

はじめに

 世界の弓を類型分類し,その分布を地球規模で俯瞰すると,各類型は概ね緯線に沿って東西に帯状に分布する。つまりある地域の弓の種類は基本的に気候に規定される。いっぽう弩弓(Crossbow)の分布に示されるように,特定の地域の弓は,その地域の歴史的経緯で二次的変異を受ける場合がある。すなわち,各種の弓の分布は第一義的には生態学的に決定され,次に歴史的・文化的に規定される。(岡安2015)

 それでは,弩弓は何時どこで発生し,いかなる歴史的経緯を経てどう広まったのか。それにはいくつかの説がある。東洋の弩は,春秋戦国時代に楚人が南方民の狩猟弓を戦闘弓に改良し,それが諸地域に波及したとみる説が有力である。しかし逆に楚人の兵器を南方民が模倣し,簡略化して使うようになったとみることもできる(野林2002)。いっぽう西洋の弩弓は,その起源を古代ギリシアの投射兵器(ballista)に求めることがある(Payne-Gallwey2007)。さらに東西弩弓の起源を古代インドに求める意見もある(藤田1933)。

 本論の目的は,東西弩弓の起源をめぐる諸説を考察し,今後の議論に一定の展望を与えることにある。

古代インド起源説をめぐる問題

 アッリアノス著『アレクサンドロス大王東征記』「インド誌」に次の記述がある(大牟田章訳2001)。

歩兵は弓兵のと同じ弓丈の弓をもつが,彼らのばあいは弓末を地面につけて左足でこれを支えながら,弓弦を大きく引き絞って矢を射放つのである。彼らが用いる矢はほとんど三ペキュス(約1.3メートル)もあるからだ。

 藤田豊八はこの記事をもとに,脚力を利用して弦を引く弩弓が古代インドで発明され,それが大陸の東西に伝播した可能性を指摘した(藤田1933)。

 確かに古代ギリシアには,紀元前4世紀頃に開発されたと推定される,ガストラフェテス(Gastraphetes)と呼ばれる兵器がある(Marsden1969)。しかしガストラフェテスの名は台座(臂)に腹を当てて弦を引くことに由来し足は使わない。しかも弩弓の矢は,東西いずれも長弓に比べはるかに短く鏃型式も異なる。西洋では長弓の矢(arrow)と区別しボルト(英:bolt / 仏:cuarrel)と呼ぶ。1.3mもの長さの「インド誌」の矢が弩弓に伴うとは考えられない。

 そもそもインド亜大陸はインド-太平洋型長弓文化圏に属する(岡安2015)。マハーバーラタやラーマーヤナなどの神話のレリーフ像に表現される弓も全て長弓である。弩弓が卓越するインドシナ半島でも,インド神話像の弓は長弓として描かれる。後世の絵画には彎弓として描かれる場合もあるが,弩弓の例はない。『東征記』を根拠としたインド起源説は受け入れがたい。

 弩弓は今日でも大陸東南アジア山岳部の先住民の間で広く使用されている。『呉越春秋』では楚人が発明した兵器とされるが,楚はもともと大陸東南アジアとの文化的な繋がりが強い。北ベトナムを中心に広がるドン‒ソン様式の成立にも関与した(ベルウッド1989)。東洋の弩弓は,楚人が南方の狩猟弓を取り入れ改良した兵器が,春秋戦国時代に急速に広まったものと考えるのが妥当だろう。

地中海の覇権と弩弓

 西洋の弩弓の起源を,古代ギリシアのバリスタに求める説がある。しかし弩弓が普及し始めたのは中世中頃以降で両者を繋ぐ確実な資料はない。またバリスタは弓(伸長バネ)式より大型のネジバネ式の方向へ発達したとされる(サイモン他2008)。しかも1139年の第二ラテン公会議では,異教徒に対してのみ使用が許される「神とキリスト教徒に仇なす武器」とされた(Payne-Gallwey2007)。西方ラテン世界において弩弓は馴染みのない野蛮な兵器だった。バリスタ起源説には疑問が多い。

 西洋で最も強力な弩弓兵(Crossbow men)を有したのかジェノヴァ共和国である。百年戦争ではフランス傭兵としてイングランド長弓兵と戦ったが,ジェノヴァ弩弓兵の本領は実は陸戦ではなく艦隊防衛にあった。地中海における制海権を担保したのが艦隊配備の弩弓兵である(Walton2015)。ヴェネツィアはじめ地中海の海洋国家は艦隊防護に弩弓兵を擁した(Mallet2006)。優勢な弩弓兵によるジェノヴァの地中海支配が終焉するのは,大砲を備えたヴェネツィア艦隊とのキオッジャ海戦の敗北以降である。

 西洋における弩弓の普及と発達は,東洋との貿易をめぐる海洋国家間の抗争の中で開始された。西方ラテン世界への弩弓の普及は,そうした歴史的経緯を視野に入れて議論されるべきだろう。大陸東南アジアで狩猟弓として成立し,東アジア諸国に波及した弩弓が,海洋交易を介してヨーロッパに西方伝播した可能性も検討されてよい。

今後の課題

 弩弓インド起源説は退けてよいだろう。楚人発明説を完全に覆す資料はないが,東アジアの弩弓は東南アジア起源とみなしてほぼ間違いあるまい。問題は西洋弩弓の起源である。もし東洋とすれば,十字軍が関与している可能性もある。しかしサラセンが弩弓をフランクの弓(qaws Ferengi)と呼んだことから弩弓は十字軍がアラブ世界に伝えたとする説の方が有力である(Ramsey2016)。とはいえそれを否定する考古学者の意見もある(Boas1999)。十字軍を迎え撃ったアラブ兵の主力は彎弓を装備した軽騎兵で,重装甲の騎士に対してその攻撃は無力であった(牟田口1986)。しかし攻城戦ではアラブ側も弩弓を使用している(Ramsey2016)。。

 十字軍は当初から弩弓を装備し,それをアラブに伝えたのか。それとも逆にアラブ側から西方ラテン世界に伝播したのか。両説とも現時点では決定的な根拠を欠いている。他の多くの文物群の流れに鑑みると,弩弓もまた東方から西方に流入した文物の一つである可能性は捨てがたい。紅海・ペルシャ湾・インド洋を介した交易が,ユーラシア大陸東部で発達を遂げた弩弓の西方への伝播経路となったのではないか。本論では,そのような新たな観点を提起したいと思う。

参考文献

  • アッリアノス(大牟田章訳) 2001「インド誌」『アレクサンドロス大王東征記』 263頁
  • アミン・アルーフ(牟田口吉郎他訳) 1986『アラブが見た十字軍』
  • 岡安光彦 2015「原始和弓の起源」『日本考古学』第39号 31–52頁
  • クリフォード・J・ロジャーズ(今村伸哉訳) 2004「イギリスにおける14世紀のRMA」『軍事革命とRMAの戦略史』芙蓉書房出版
  • サイモン他(松原俊文監修)『戦闘技術の世界史1古代編』創元社
  • ピーター・ベルウッド(植木武・服部研二訳)1989 『太平洋-東南アジアとオセアニアの人類史』法政大学出版局
  • 藤田豊八 1932『東西交渉史の研究-西域篇-』岡書院
  • 野林厚志 2002「狩猟具としての弩弓–雲南怒族の弩弓製作とその射技–」『武器の進化と退化の学際的研究–弓矢編–』国際日本文化研究センター 117–129頁
  • Balaguer, V.  1862  La Historia de Cataluña y de la corona de Aragon, 3 . p. 229
  • Boas, A. J. 1999 Crusader Archaeology: The Material Culture of the Latin East.
  • Mallett, M. E. et.al 2006 The Military Organisation of a Renaissance State: Venice C.1400 to 1617. 
  • Marsden,E. W. 1969 Greek and Roman Artillery: Historical Development.
  • Payne-Gallwey, S. R. 2007 Crossbow: Its Military and Sporting History, Construction and Use.
  • Ramsey, S. 2016 Tools of War: History of Weapons in Medieval Times.
  • Rose, S. Medieval Ships and Warfare (The International Library of Essays on Military History) .
  • Walton, N. 2015 Genoa, ‘La Superba’: The Rise and Fall of a Merchant Pirate Superpower.
  • 国立民族学博物館 2018参照『標本資料目録データベース』

Posted by Okayasu Mitsuhiko