剣と短甲が消えた日

(掲示板”MT15″からの転載)

岡安からの発信(2002年6月18日)

 今日もある人と、一時間ばかり議論をしてきたところですが、TK47とMT15の境目のところで、剣や短甲が無くなる、その無くなる速さ、期間についての問題。
 私は、MT15段階に入ると、剣も短甲も、極めて突然、古墳の副葬品の中から姿を消す、と判断しています。これに対して、それらの無くなり方は、さほどには急速でないという意見もある。
 ちなみに、岐阜県虎渓山1号墳例に示されるように、MT15以降の古墳の副葬品の中に、剣がごく稀に認められることは確かにある。しかし、そうした資料は極めて乏しい。MT15以降に爆発的に増える古墳の数も考慮すると、それ以前の時期との相対的な差は顕著で、無くなったと言ってもよい。
 と、私は思うのです。が、否、そうではない、(今日のお相手のように)「多少は残る、変化は漸進的だ」という方もおられる。
 というわけで、MT15以降に確実に副葬されたと見てよい資料は、確実には、どれだけあるでしょうか。とくに、武装システムが大きく変わった、という私または我々=旧古墳文化研究会の考えに反対意見を有する方に、ご批判方々、ご例示いただければ幸いです。

【註】
※藤ノ木古墳の例は別格なのでこの際は除外。
※※宮城県大年寺山横穴で剣と報告された例は大刀を誤認したものである(こう言うと一部の宮城県の方々が怒りそうだが、間違いは間違いなので指摘しておきます)。いずれにしても上記の議論とは直接関係ないので除外。
※※※相対年代をMT15などと須恵器の型式名で表現することには問題があるが、もし議論するなら別スレッドでやりましょう。

内山敏行氏からのコメント(2002年6月21日)

 MT15型式期以降に副葬された例として思い出すのは、茨城県真壁郡関城町上野古墳のものです。鉄刀とともに剣、横矧板鋲留短甲とともに小札甲(いわゆる挂甲)も出土しています。共伴する剣菱形杏葉は大型化して鋲を密に打つ。轡は深く抉れる内彎楕円形鏡板が付き、別造り引手壺の影響を受けています。馬鐸は立聞が古い丸形で、文様はやや新しいもの(地文は鋸歯文と珠文で、米の字から縦線を省略した線を入れる)。後期の新しい馬具群が登場した初期のセットだと思います。『茨城県史料 考古資料編 古墳時代』や『関城町史 別冊資料編 関城町の遺跡』に掲載されています。
 このほか、岡山県倉敷市王墓山古墳の遺物に短甲があるとされることがありますが、詳細は未報告・未確認で、事実かどうか疑わしいと思います。
 短甲とほぼ同時に消える遺物として眉庇付冑があります。これもMT15型式期以降と思われる珍しい例が佐賀県唐津市島田塚古墳に1例あります。埴輪の表現では、高槻市今城塚古墳の武人埴輪が被っている例が下限で、やはりこのころでしょう。同じ頃の例で、茨城県玉里村舟塚古墳の武人埴輪の冑も、眉庇付冑かもしれないと思います。
 TK47型式並行期以前の短甲・剣・眉庇付冑の例を挙げるのは簡単ですが、MT15型式期以降の副葬例はめったに見られない。上に挙げた各古墳の例をすぐに思い出すのは、それだけ珍しいからです。MT15型式期には極少数が残存しますが、これらは生産停止後しばらく長めに使われ副葬された稀少例でしょう。
 他に同様の事例が思い当たる方がおられましたら、ぜひ御指摘いただければと思います。

杉井 健氏からのコメント(2002年7月2日)

 お久しぶりです。お元気ですか。
 以前GPSの実験をしていただいた、京都府井ノ内稲荷塚古墳の石室にて、鉄剣が出土しています。羨道への副葬に伴うものでしょうから、6世紀以降に確実に下ります。須恵器からいくとTK209型式期との見解です。
 報告書、そのうち送られると思いますので、ご検討下さい。

岡安からの返信

杉井さま
 ありがとうございます。
 ふところ以外はいたって元気です!
 どこか身近なところで出てた記憶があったんですが・・・・・。
 かなり遅い時期ですね。伝世でしょうか、それとも?
 TK43併行が主体と見られる千葉県城山1号からは、全体が直刀で、切先が剣の、正倉院にある、いわゆる諸刃造の刀(先の部分だけ残存)が出ています。これは、どこかで大塚先生と連名で発表したと思うのですが。
 北條さんに聞いた話では、滑石製模造品には剣がずいぶん新しい時期まで残ると教わりました。
 つまり、剣は全く消えてしまった訳ではなくて、根強く、しかも何かしら精神生活、宗教性を帯びたものとして、それを尊ぶ文化が長期間存続した、ということでしょうか。
 なら、なおさらのこと、何故、突然、副葬品にほとんど見当たらなくなるのか? やっぱり不思議です。