張允禎氏「韓半島三国時代の轡の地域色」を読む

 先日滋賀県立大で開かれた古代武器研究会の会場で、張允禎氏から論文の抜き刷りを頂いた。これまで看過されてきたハミエダ(ヒョウ)轡の部品に注目し、その地域性を論じたものである。私も「五世紀の馬具と稲荷山古墳」と題する小文で同種の部品に簡単に言及したことがあるが、半島の馬具に詳しくないため断片的にしか論ずることができなかった。今回、日韓の資料に精通した張氏によって問題が整理されたことは喜ばしい限りである。よくまとまった短い論文なので、内容については私が下手な紹介をするより論文に直接当たっていただく方が話が早いと思う。ここでは、私が気づいたことと、会場で張氏と議論した点について簡単に述べておく。 

 張氏が取り上げたのはハミエダ轡の「立聞用金具」であるが、実は全く同じ部品に拙論中で私は「銜枝(ハミエダ)留」という名称を与えている。同じものの名前が、どうして全く違ってしまったのか。それは同じ部品に二つの機能があり、張氏と私がそれぞれ別の機能に注目して名称を与えたからである。 

 張氏は轡を面繋に取り付けるための立聞の機能に重点をおき、私は有機質のハミエダを銜に固定する機能に着目したわけである。同じ部品の上半分の機能に注目すると「立聞用金具」、下半分に注目すると「銜枝留」になるのである。合わせて厳密に命名すれば「立聞兼銜枝留用金具」になるけど、長すぎるなあ。この文では査読誌に先に論文を発表して命名した張氏に敬意を表し以下「立聞用金具」を使おう。 

 さて、武器研の懇親会で張氏と話をしていて、再び議論が分かれた。以前、内山敏行氏と私が『信濃』に紹介した飯田市の高岡4号墳出土のハミエダ轡をめぐる問題である(右図)。ハミエダは、銜の外環の中に留められたのか、外に留められたのか。 

 私は外環の内径の小さなこと、「立聞用金具」の付き方から見て、ハミエダは外に連結されたと見る。福岡県池ノ上6号墳(当日は酔っていて老司古墳と言ってしまったかもしれない)などに類例を求める。対して張氏は中と見る。張氏によると、外に付けると「立聞用金具」の機能が損なわれるという。なるほど。しかし私の考えでは、外に付けても「立聞用金具」としての機能は損なわれないと思う。期せずして、立聞の機能に重きをおくか、銜枝留の機能に重きをおくかによって、復原をめぐる考え方に違いが生じる結果となった。 

 立聞としての機能についてあまり考えていなかった私は、会場でその点を指摘されても張氏にきちんとお答えできず「帰ってから検討する」とお約束することにとなった。この拙文が一応のお答えである。識者諸賢はどう判断されるであろうか。この点について近く発表する論文でも議論したいと思う。 

 なお、「はじめに」で示されている通り、張氏は「新羅、伽耶、百済といった後の国家や政治領域をそのまま三韓時代やそれ以前に遡らせ、そのようにして策定した空間的枠組みに、考古資料をじかに当てはめるという方法」に批判的である。私も以前「東国」という地域をアプリオリに設定するのは問題であると主張したことがあり、この点については全く同意見で、張氏の見解を全面的に支持したい。 

 強いて注文をつけると、「立聞用金具」についてはもう少し細分がなされた方がいいように思えた。もちろん、必要以上に細分しても意味がない、という議論もあると思うが、多少は編年に役立たないだろうか。いずれにしても張氏の次の論文に期待したい。 

 最後に、懇親会で粗雑な議論のお相手をしてくださった張氏と、会場で張氏を紹介してくださった高橋克壽氏に感謝の意を表したい。 

張允禎「韓半島三国時代の轡の地域色-とくに立聞用金具を中心として-」『考古学研究』50-2(通巻198号)85-104頁,2003年9月,岡山

岡安光彦「五世紀の馬具と稲荷山古墳」『ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳』,2003年,山川出版社,東京

内山敏行・岡安光彦「下伊那地方の初期の馬具」『信濃』第49巻第4・5号(通巻568号),41-50,1997年5月,信濃史学会,松本

参考文献