展開 / deployment for combat

 律令期の軍事編成で、今日の分隊に相当するのが、兵士10名で編成される「火」である。同様に分隊長に相当するのが「火」を指揮する「火頭」であった。兵士5名に置楯1基が装備されたので、各「火」ごとに2基の楯を装備していた。通常の戦闘の際には、楯を前後の2列横隊に配置して戦列を構成したという。おそらく、各火が前後に分かれて各列の楯をそれぞれ分担し、後列の楯に火頭が位置して、前後に分かれた「火」の指揮を執ったとみるのが妥当であろう。

 古代ローマの軍団(legions)の場合は、第一列(hastati)・第二列(principes)・第三列(triarii)からなる3重の戦列(triplex acies)で戦闘を行った。第一列には最も若い兵士、第二列には20代後半から30代前半、第三列にはベテラン兵が配置され、第二列までが投げ槍、第三列のみ長槍を装備していた。第三列は予備部隊として位置付けられており、第三列まで投入された場合は、ローマ軍にとって戦況が際どい状況にあることを意味したという。

律令期の二列陣形はこんな感じだったか?

 律令期日本の軍団の二列横隊は、戦列の数だけで比較すると古代ローマ軍などに比べ、縦深が浅いようにも感じられるが、実際には一つの置楯を護る五人の集団が一戦列を構成しているわけだから、二重戦列はむしろ縦深を大きくとった守りといえよう。

 律令期軍団の戦闘体形に問題があるとすれば、行軍にも、さらに戦闘体形に開進(deploy)するのにも、かなり手間取ったであろうと想像される点である。ローマ軍の場合、行軍では第一列から第三列までが3列縦隊で行進し、戦闘体形になる場合には、そのまま90度回転して横隊になればよかった。律令軍団の場合、そうはいかなかっただろう。体形を組むまで、兵士はかなり右往左往したのではないか。しかし、逆に機動力を損なう代償として、一旦戦列を整えて陣地編成してしまえば、強固な防御ラインを構築することができただろう。

 このことから、律令期軍団の二重戦列は、松木氏のいう攻撃偏重の軍事力使用どころか、攻撃は二の次の、呆れるほど防御偏重に偏った戦闘体形といえよう。また、接近戦を好むどころか、弓矢によって可能な限りアウトレンジから敵を叩き、近接戦闘に入る前に敵を撃破、少なくともその戦力に決定的な打撃を与えることを指向した戦術である。後藤先生が考えるようにはぜんぜん勇敢でなく、松木氏が唱えるほど馬鹿ではない。ごく常識的な、よい意味で狡猾な戦術教義に基づく戦闘システムと考えられる。