両手か片手か / Two-handed Sword or Single ?

2005年に書いた文には大きな間違いがあるので、その誤りを正しておく(2019年8月31日)。

6世紀刀から7世紀刀へ

 6世紀末ないし7世紀初頭に始まる、武装システムの7世紀的変化は、その後どのような展開をとげるのであろう。

 大刀の軽量化、短小化の流れは、東国から陸奥に至る地域で盛行した蕨手刀、さらに「北の方頭」とよばれる一群の大刀へと展開していく。もう一つの流れは、正倉院に見られる小振りの大刀へと向かう展開である。法隆寺に伝わる七星剣も、それ自体は銅製の切刃造の刀身を持つ儀器であるが、往時の実戦用の鉄製刀身をもつ大刀の形制を写したものとみてよいであろう。

 これらの大刀に共通する特徴は、片手で扱うことができる、つまりsingle hand sword であるという点である。ちなみに、6世紀初頭ないし前葉に製作された、江田船山古墳の銀象嵌銘入の直刀に代表的に示されるように、6世紀末までの一般的な大きさの直刀を片手で操るのは、不可能とは言わないものの、かなりの腕力を要する。基本的に、two-handed sword として用いられたと考えるのが妥当だろう。

問題は、この「two-handed sword として用いられたと考えるのが妥当だろう」という判断である。今日的な観点から見れば、6世紀末までの長大な大刀は、たしかに片手で扱うのは難しそうである。しかし、埴輪に示された柄の拵えなどを見る限り、片手で扱うことを前提にしているとしか考えられない。

 いっぽう、鉄鏃の変化も、東国から陸奥に至る地域で発達した、古墳時代の東国の鏃の伝統を残す系譜と、これも正倉院御物に示される制式へと、二つの流れがある。

 いずれにしても、それらの武器は儀器などではなく、実戦用の武器である。軽量化というのは、それ以前の6世紀までの武器に対比しての相対的な評価である。逆に、古墳時代中期の鉄鏃などには、実用性を越えた過剰な重量の「儀器」が含まれているかもしれない。

 もし、7世紀を経て軽量化した鉄鏃を「飾りもの」と評価するなら、その後のさまざまな合戦は、全て「飾りもの」の箭を用いて戦われたことになろう。

 ただし、大刀については、ある時点で再び two-handed sword が主体となる。したがって、いずれかの時点で、戦闘における大刀の運用法が再び変化したとみられる。この辺りの具体的な変化については、津野仁氏が抑えているだろう。

日本刀が成立していく過程で、たしかに両手持ちへと柄の拵えが変化していく。その変化がはじまるのが7世紀である。

 結論を述べると、7世紀代に進行した武器・馬具の軽量化は、騎兵を指向した武装システムの進歩、として捉えれば最も簡単に説明がつく。中世に向って大刀が再び長大化するのは、騎兵から騎馬武者へ、という軍事力(とくに東国)の質的変化に対応しているであろう。

 ここであまり書いてしまうと、論文のネタが尽きる(もともと乏しい)ので、この辺でやめておく。

論文に書かなくかったのが正解。