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英国で弓を見てきた

2018年末から年明けにかけて、英国を旅行してきた。考古学上の目的は主に二つ。第一に、オックスフォード大学附属ピットリバース博物館(Pitt Rivers Museum)で、世界一の弓のコレクション(のひとつ)に再会してくること。三年前に見落としたことが、まだいろいろあるはずだ。第二に、ポーツマス軍港に赴き、沈船メアリー・ローズ号から引き揚げられた、16世紀のEngland Longbowをこの目で見てくること。前回はまだ施設の整備中で、実見することが叶わなかったのだ。そして、今回さらに「おまけ」が一つ付いた。たまたま大英博物館でアッシュールバニパル(Ashurbanipal)展が開催されていたので、壁画に表現された弓を見てくることを第三の目的に付け加えた。中近東の弓については僅かな知識しかない。東西南北各種の弓が錯雑した厄介な地域である(実際には、思いの外単純な地域かもしれないのだが)。いずれにしても、該地の弓をめぐる考察の契機にできればと思った次第(まあ、実際はそう簡単ではないが)。
今回は、Oxford>Stratford-upon-Avon>London>Canterbury>Portsmouth>Shanklin(Isle of Wight)>Londonと18日かけて回ってきた。順番が前後するが、まずは、HMS Mary Roseとその弓について簡単に報告しておきたい。ちなみにHMSは艦船接頭辞 His (Her) Majesty’s Shipの略。日本の場合はHIMS(His Imperial Majesty’s Ship というかというと、JDS(Japanese Defense Ship:日本国海上自衛隊護衛艦)らしい。とはいえ、たまたま英国滞在中にニュースを聞いていたら、海自の哨戒機P1が This is Japan Navy!と呼びかけていたなあ。
さて、沈船メアリー・ローズ号は、1982年に引き揚げられたあと、さまざまな復元と修復を受け、現在ではポーツマス軍港内のPortsmouth Historic Dockyardに開設されたメアリー・ローズ博物館にまるごと展示されている。
いずれ詳しく書くことがあるかもしれないが、1510年にチューダー朝のヘンリー8世の命によって建造が開始され、翌年進水、1512年にポーツマスを母港として就役した帆船で、当時としては最大級の軍艦であった。沈没時は、80余基の砲を搭載し、200名の水夫、185名の兵士、30名の砲手が乗り組んでいたという(大砲の数と砲手の数の関係が今ひとつ判然としないが)。第一次から第三次に至る対仏戦争で活躍したが、1545年に起きたソレント(ポーツマス港とワイト島に挟まれた海峡)の海戦でフランス海軍ガレー船の攻撃を受けて撃沈された(正確な原因をめぐってはかねてから論争がある)。
日本ではあまり知られてはいないが(そもそもソレントと聞けばナポリ民謡「帰れソレントへ」のイタリアのソレントを思い出す人が多いのではないか)、ソレント海戦は、海洋国家イギリスとしては実に不名誉な戦いであった。海軍の拠点ポーツマス港の目と鼻の先までフランス海軍に押し込まれ、対岸のワイト島には敵海兵隊の上陸を許していくつかの町を焼き討ちにされ、あまつさえ国王の目の前で主力艦を沈められるという、まことに目を覆う惨状。幸いにも、フランス海軍側もそれ以上の決定的戦果を得られず、止む無く引き揚げたので助かった、という惨憺たる有様であった。

図の左にソレント海に突入せんと集結するフランス艦隊、中央にガレー船の攻撃を受け沈没していくメアリー・ローズ、右にポーツマス港に逃げ込んだ感じのイギリス艦隊、陸には多数の兵士が右往左往し、遠くワイト島からは火の手が上がっている。ただしこの時、ワイト島の住民はフランス兵に激しく組織的に抵抗し、多くの女性も弓手として戦いに加わったという(England longbowは和弓よりさらに強い膂力を必要とするので、彼女たちが日頃から弓を引く訓練をしていたことが伺える)。
なお、メアリー・ローズ号の沈没地点をプリマス沖とする説明がネット上に散見されるが(Wikipedia日本語版を含め)、明らかに誤りである。いずれも何処かの間違った記述を孫引きした結果と思われる。メアリー・ローズ号は沈没後300年を経て、1836年に漁師たちが最初の手がかりを見つけ、それを契機に多くの調査研究がなされ、1971年から本格的な引き揚げ計画が開始されたが、もちろん、その沈没地点はソレント海、ワイト島と本島とを挟む海峡である。当時の戦況を描いた絵でもそれは明らか。
長くなってしまったので、肝心のメアリー・ローズ号の弓に関しては、次回以降に。